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サーフミュージックの父:ディック・デイルを知るための7つの事柄

So Calの伝説がどの様にフェンダーアンプとヘヴィメタルを開拓したかを見ていきましょう。

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「King of Surf Guitar」として知られるディック・デイルは、それまでに無かったスタイルでこのジャンルを開拓しましたが、世界中のアーティストに模倣されることはありませんでした。

1937年にボストンで生まれたディック・デイルことリチャード・モンスールは、若い頃から音楽に触れながら育ちました。レバノン人の父と、ポーランド人の母を持つ彼は、両国の弦楽器のカルチャーに魅了されていきました。

子供の頃、彼はビッグバンドのドラマーであるジーン・クルパの影響も受けました。これはディックの演奏がどうして激しくパーカッシヴなのかを説明するのに十分な理由となるでしょう。

1954年に南カリフォルニアに引っ越した彼は、当時急成長していたサーフ文化にその身を投じることとなりました。

この全ての要素が一つになり、ディックのギターに対するユニークで、特別なアプローチが形成されました。

残念ながら、ディックは2019年3月19日に81歳でその人生に終わりを告げてしまいました。彼の功績を称え、後世に引き継いでいく為にも、この史上最高のストラトキャスタープレイヤーの1人であるディックに関わる7つの事柄を見ていきましょう。


 
 
 

1.元々はカウボーイシンガーになりたがっていた

9歳でピアノを始めたデイルは、カントリーソングをプレイするために独学でウクレレをマスターしました。その後、彼はすぐにギターを弾き始め、彼の最初のヒーローであるジーンからの影響と、迫り来る波、マンドリンの様な楽器ウードの要素を融合させ、彼独自のサウンドを開発し始めました。


2. ディックは他と違っていた

彼の特徴的なスタッカートピッキングは、左利きの彼が右用のギターを使用することで生まれたことは有名な話でしょう。ジミ・ヘンドリックスは弦を上から太い弦に張り替えましたが、ディックはその様なことはせず、そのまま(太い弦が一番下)プレイしました。このことにより、噛みつく様な低音と、豊かな高音を手に入れることができました。


 
 
 

3. ディックの"Beast"は気の弱い人には向いて無かった

ディックの"The Beast"と名付けられたゴールドのStratocasterは、大音量でプレイするのに相応しい様に、上から、0.16、0.18、0.20、0.39、0.49、0.60とワイヤーの様に太い弦をはっていました。ステージ場では、"Heavy"のピックを使用していました。"The Beast"にはトーンコントロールが無く、3ウェイスイッチもバイパスされており、代わりにフロントとリアピックアップの切替用のトグルスイッチが搭載されていました。


4. ディックはレオ・フェンダーの100ワットのアンプ開発に協力した

ディックがより大きな音量を求めていた為、ディックとレオは、10ワットのアンプでは対応できないことに気づきました。この問題を解決する為、レオは85ワットのトランスを開発しました。そしてそのトランスは100ワットでピークにたっしました。ディックはかつて「それはちょうどVWのバグからテスタロッサに乗り換えた様だった」と語っています。そのアンプはその後、15インチのスピーカーを搭載し、"The Show Man"と呼ばれる様になりました。

ディックとレオは、より良い環境を作るために協力し、のちに2つのスピーカーを収納できるキャビネットを開発しました。もちろんそれにはもっと大きなトランスが必要だったので、彼らはトライアドカンパニーと提携し、180ワットでピークが来る100ワットのトランスを設計しました。それがゲームチェンジャーとなった"The Dual Showman"なのです。


 
 
 

5. リヴァーブのパイオニア

アンプの革新だけではなく、彼はリヴァーブを最初に使用したプレイヤーの一人でした。最初はビブラートを加えるためにライヴで使用していました。しかし彼は偶然ストラトをリヴァーヴに繋ぐとよりウェットで、サスティンのあるサウンドが得られることに気付き、その後のサーフミュージックの代名詞となるリヴァーブサウンドを生みだしました。


6. ディックは"ヘヴィメタルの父"とも呼ばれていた

ギタープレイヤーは彼のことをヘヴィメタルの父と呼んでいました。実際彼が築き上げたサーフミュージックは、後のSo Calギタリストや、エディ・ヴァンヘイレンに影響を与えました。エディが最初にプレイを学んだ曲は、Venturesの"Walk Don't Runでした。この曲はディックの様な高速ピッキングで有名です。また、"Romeo Delight"や"Top Jimmy"など、Van Halenのいくつかのヒット曲を聞くと、サーフミュージックからのヒントが聞こえるはずです。


 
 
 

7. 1990年代、タランティーノのおかげで再び脚光を浴びることになった

1960年代のブリティッシュ・インヴェイジョンによって、サーフミュージックは輝きを失い、1965年にはディックはキャピタルレコードとの契約を失いました。また、彼は何年もの間、癌に苦しみ、加えてサーフィンでの事故により、長い間音楽活動をすることができませんでした。しかし、80年代に入ると映画Back to the Beachのサントラで、スティーヴィー・レイ・ヴォーンと共演し、グラミー賞にノミネートされ、復活の狼煙を上げました。

そして1994年、大ヒット映画"Pulp Fiction"でタランティーノがディックの"Miserlou"をオープニングテーマに採用したことで、彼は新しいファンを多く獲得することになったのです。