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人間の交流もあるし垣根がない。ロックはとても社交的な音楽だと思う | 鈴木茂【前編】

鈴木茂

伝説的バンド“はっぴいえんど”のギタリストとして活躍し、解散後に単身L.A.に渡りソロアルバム「BAND WAGON」を完成。その後、ティン・パン・アレーのメンバーとして数多くのセッションを重ね、現在も鈴木茂BANDや完熟トリオとして精力的なライヴ活動を展開。スタジオワーク、ライヴサポート、アレンジャー、プロデューサーなどマルチな音楽的感性を持つ鈴木茂が登場。前編では活動遍歴を振り返りながら、音楽、そしてギターとの関わりを中心に話を聞いた。

歌のバッキングで効果的なギターを
弾けるギタリストを目指そうと思った
 

― 音楽の目覚めはいつだったんですか?

鈴木茂(以下、鈴木) 初めはニール・セダカですね。僕の兄がドーナツ盤を集めていて、その影響でこっそり聴き始めたんです。なかでも気に入った曲が「恋の片道切符」。ラジオもよく聴いていましたね。具体的に、もっと強く意識し始めたのはザ・ベンチャーズからです。

― ギターを始めたのもその頃ですか?

鈴木 中学1年生だったと思うんだけど、夏休みにギターを持っているクラスメートの家に遊びに行った時に「パイプライン」のリフを教えてもらってね。これはわりと簡単に弾けるなって思って(笑)。兄がギターを持っていたから家でも弾いていたんだけど、勝手に触ると怒られてね。だから、いない時にこっそり弾いていました。それから強く惹きつけられたんですね。

― 始めてすぐにギタリストになろうと思ったんですか?

鈴木 意識したのは中2〜3の時かな。高校生の時に偶然知り合った、キーボード奏者の柳田ヒロさんのお兄さんがアマチュアバンドばかり集めて、ピープというライヴ企画集団のようなものを作ったんです。そのオーディションに地元で組んだベンチャーズのコピーバンドで参加して、合格してね。細野(晴臣)さんはカントリー系のバンド、林立夫君と小原(玲)君は、ヤードバーズのコピーバンドで出ていたかな。彼らとは、そこで出会ってからの付き合いなんです。その後それぞれのバンドが解散して、一緒にやろうって話になった。そのバンドは仕事というレベルではなくて、どこかのパーティに呼ばれたりとか、そういう感じでしたね。

― 大瀧詠一さんとは、どのタイミングで出会ったんですか?

鈴木 大瀧さんは恵比寿で下宿していたんですよ。で、細野さんが白金に住んでいて。すると地理的に近くにいたし、当時レコードを小脇に抱えて歩いているとお互いに意識し始めたりして。

― まるでキース・リチャーズとミック・ジャガーみたいじゃないですか(笑)。

鈴木 そうだね。僕は詳しくは知らないんだけど、僕が大瀧さんと会う前に細野さんとは知り合っていたみたい。その後、林君と僕と細野さんとでバンドをやっていたんだけど、それとは別に小坂忠さんが細野さんを引き抜いて、それでエイプリル・フールを結成した。3年くらいやって解散してしまって、松本(隆)さんと細野さんでまたバンドをやろうって話になった。最初は忠さんを入れる予定だったらしいけど、彼がHAIRのオーディションを受けていたから、じゃあ違うヴォーカルを入れようってことで大瀧さんに声をかけたんです。その後、僕が入って“はっぴいえんど”になったんですね。

― 当時はどんなギターを使っていたんですか?

鈴木 当時はいい楽器を持っていなかったんですよ。はっぴいえんどの最初のレコードの「ゆでめん」(「はっぴいえんど」の通称)を作って、URCレコードと契約した時、レコード会社の看板ミュージシャンだった岡林信康さんのツアーをやることになったんですね。そのギャラで、それぞれギターを買ったんですよ。僕は、別のブランドのギターを買ったんだけど、もうフェンダーなんか夢の夢でね。あの頃はとても買えなかった。本当はTelecasterが欲しかったけれど買えなくて、何年か後にようやく手にしました。

― Stratocasterじゃなかったんですね。

鈴木 ストラトも、とっても興味があったんです。ジミ・ヘンドリックスが使っていたでしょう。だけど、はっぴいえんどのカラーではなかった。だからストラトは、はっぴいえんど解散後に初めて買ったんですよ。今もよく使っているフィエスタレッド。72年くらいに買ったのかな。

― ソロで出された「BAND WAGON」(75年)は、完全にストラトのイメージですよね。

鈴木 「BAND WAGON」のレコーディングの前年にロスでストラトを買ったんですよ。

― 鈴木茂さんのキャリアがちょうど50年ですよね。70年代当時のご自身のギタープレイに対する考え方と、今の考え方で変化はありますか?

鈴木 変わっていないかもしれないですね。ギタリストのほとんどが、ギターを弾き始めるとほぼ毎日弾き続けるのですが、僕も1年間ぐらいはとにかくずっと弾いていました。1年過ぎた頃からある程度弾けるようになってきて、そこで自分がどういうスタイルの方向のギタリストになるか、初めて考えたんです。その時に考えたのが、ひとつはジャズとか速弾きとか、テクニックを駆使する方向のギタリスト。もうひとつは、僕はザ・ビートルズも好きだったから、ジョージ・ハリスンのような、曲の中で重要な役割を果たすフレーズとか、印象づけるようなギターサウンドを作り出すギタリスト。そのどちらかだなって考えたんです。結局、自分は歌のバッキングで効果的なギターを弾けるギタリストを目指そうと思った。それから、当時はベンチャーズとか、エリック・クラプトンとかに“なりきっちゃう人”がたくさんいたんだけど、僕はやめようと。いろんな影響を受けてブレンドしていって、ゆくゆくは自分らしいギタリストになれればいいなって思ってね。だからある程度コピーすると、それ以上は追求せずに、基本のスケールとか、クセとか、バイブレーションとか、細かい技術的な部分で自分が必要とするものだけを取り込んでいったんですね。

― そうして茂さんのスタイルが出来上がっていったんですね。

鈴木 だんだんとね。最初に、わかりやすいギタープレイとして僕が意識したのは、エリック・クラプトンとデイヴ・メイスン、スティーヴン・スティルス。それからプロコル・ハルムにいたロビン・トロワー。そして別格にジミ・ヘンドリックスがいる。ジミヘンは真似できないけど、とっても憧れる存在。この5人かな。ジミヘンだけはもう別格でね。とってもエモーショナルに、自分の感情を演奏に反映できるギタリストですよね。おそらく、もうあのスタイルの人は出てこないだろうな。

― なるほど。いろいろな方のバックでセッションをしてきたと思うのですが、印象に残っている、忘れられないセッションはありますか?

鈴木 自分以外のものであれば、ユーミンがとっても印象に残っていますね。彼女は最初のレコーディングの時から仮歌じゃなくて、ちゃんと歌詞を歌ってくれたんですよ。だから、レコーディングでギターの演奏を迷った記憶はないですね。ティン・パン・アレーで演奏をしたんだけど、だいたい5〜6回リハーサルして、2〜3テイクくらい本番をやって終わり。ギターソロだけは、後でみんなが帰った後に録るというやり方が多かったですね。

― 2018年と2019年の紅白歌合戦では、松任谷由実さんと共演されていましたが、いかがでしたか?

鈴木 やっぱり当時の空気感が蘇ってきますよね。あの声と人柄とそれぞれの仲間が集まると、自然と当時の歯車が回り始めるというかね。


原点に戻らないといけないなと思った
それで作ったのが「SEI DO YA」です
 

― 先ほどもお話に出た「BAND WAGON」は、ダグ・ローチ、ビル・ペイン、ローウェル・ジョージ、デヴィッド・ガリバルディ、グレッグ・エリコなど、さまざまなアーティストが参加していますが、そうした経験によってギタリストとして何か変化はありましたか?

鈴木 コーディネートの人が紹介をしてくれて一緒にやろうとなった時、まず彼らは僕がどんな音楽をやるのか気になるわけ。だから、まずは聴かせろって言われてね。それで例えばグレッグ・エリコとは、家で2人で音を出した。僕の曲を演奏したら気に入ってくれてね。レコーディングしている最中も、チック・コリアのバンドの人とか、アル・ディ・メオラの人とか、いろんな人が出入りして、音を合わせて遊んでいたんです。そういうところから、積極的に自分をアピールしなくちゃいけないと思い始めましたね。言葉の弊害もあるし、僕はなかなか自分をアピールできない性格だったんだけど、それじゃあまずいと思ってね。演奏中は、毎回が真剣勝負でしょう。どうグルーヴ感を合わせるかは理屈じゃなくて、肌で感じ取るものだから。何回もセッションを重ねて、何となく自分で掴んでいったところはありますね。

― しかし、すごい環境ですよね。

鈴木 年代的にも、当時は70年代。ロックって、ジャズとかクラシックとか、いろんなものを吸収して、複合してここまで来ていますよね。だから人間の交流も当然あるし、あまり垣根がないというか。そういった意味では、ロックってとても社交的な音楽だと思いますね。

― 「BAND WAGON」の後、茂さんはどういう思いでギタリストとして歩んでこられたんですか?

鈴木 結局「BAND WAGON」を作ってから、僕は何年かハックルバックというバンドを作ってライヴ活動をするんだけど、そのうちだんだんロックの集客能力がなくなってきた。それで、やりづらさを感じるようになったんですね。それだけが理由ではないんだけど、そこで、そもそも自分がやりたかったことを考えたんです。ギターだけじゃなく、総合的に曲も作りたいし、アレンジもプロデュースもライヴもやりたいし…って、いろんなことを自分で完結できたらいいなって考えていたのを思い出して、独学でアレンジをやり始めました。ストリングスやホーンのアレンジも、自己流で少しずつやるようになって。  だけど、日本ではなかなか難しかったね。ティン・パン・アレーも、もともとはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオやアトランティック・レコードとかをイメージして作ったんですよ。レーベルにバンドがいるっていうね。でも、いざやってみると依頼はそんなに多くない。なかなかそういった夢が叶わず、最終的にはティン・パンはなくなっていくんだけど。それで結局、僕は個人でアレンジとか、スタジオワークを始めちゃったんです。一般のお客さんからすると、そこから僕の接点がなくなっちゃうわけ。当時、ホームページもなかったから“鈴木茂って何やってるんだ?”って。スタジオワークもツアーの仕事もたくさん来ましたね。ツアーの仕事は楽しかったし、生活も安定しました。だけどそのうちに、だんだんと自分がロックから離れてきちゃったことに気がついて。言ってみれば、ぬるま湯みたいな感じもしてしまってね。自分がいけないんだけど、自分の音楽を作っていく意欲がだんだん萎えてきちゃったのね。

― そこからまた自身の作品を制作するきっかけはあったんですか?

鈴木 これはまずいなと思っていた頃に、プロデュースをした若いバンドの子から“ポリスっていう、すごくいいバンドがいる”って聞いたんです。聴いたら“昔、林と3人でやっている頃のあの感じだな”って思い出したの。それで、原点に戻らないといけないなと思ったんですね。で、作ったのが「SEI DO YA」(85年)というアルバムです。

― 「SEI DO YA」でギタリストとして、表現者として、再び自分のやりたい世界に戻っていったんですね。

鈴木 そう、原点に戻ったんですね。ストリングスもホーンもいらないと。ドラムとベースとギターだけで作らないとダメじゃないかって自分に問いかけて作ったのが、「SEI DO YA」だったんです。それから何十年も経っているけれど、今もそういう気持ちですね。


› 後編に続く

 
鈴木茂

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PROFILE


鈴木茂
51年、東京都生まれ。68年にスカイを結成しプロデビュー。69年、細野晴臣に誘われ、松本隆、大滝詠一とヴァレンタイン・ブルーを結成。翌年、バンド名を“はっぴいえんど”と改名し、アルバム「はっぴいえんど」でデビュー。アルバム「風街ろまん」「HAPPY END」を残し、72年末に解散。解散後は細野、林立夫、松任谷正隆らとキャラメル・ママを結成。74年、単身L.A.に渡りソロアルバム「BAND WAGON」を完成させる。帰国後アルバムリリースに合わせ鈴木茂&ハックルバックを結成し、全国ツアーを行う。その後ティン・パン・アレーのメンバーとして数多くのセッション活動を重ね、ソロとしても7枚のアルバムを発表するかたわら、スタジオワーク、ライヴサポート、アレンジャー、プロデューサーとしても活躍。ソロアルバムに、「LAGOON」「Caution!」「White Heart」「SEI DO YA」など。2000年、ティン・パン・アレーのメンバーだった細野、林立夫とともにTin Panを結成し、アルバム「Tin Pan」をリリース。08年に、70年代後半の活動を6枚のCDボックスにまとめた「鈴木茂 ヒストリー・ボックス/クラウン・イヤーズ1974-1979」をリリース。19年に活動50周年を迎え、現在も伝説的ギタリストとして幅広い世代からリスペクトされている。

› Website:http://suzuki-shigeru.jp