Kurt Cobain Jaguar®
象徴的なこのギターからミュージシャン、バンド、そして時代を振り返ります…

このKurt Cobain Jaguar®には、数多くの歴史が詰め込まれています。

まずJaguarのデザインは、「破壊的」という言葉に象徴される60年代のエッセンスを、他のどの楽器よりも見事に体現しています。滑らかな曲線、クロムパーツ、多くのコントロール・スイッチ、競合製品に立ち向かうべく採用された短いスケール。Jaguarには、1960年代のリベリアスなフェンダーのエッセンスが凝縮されています。

それがこのギターの全てです。

30年後、このギターは従来の音楽スタイルに新境地を切り開くきっかけを作ることとなり、Jaguarに潜む反逆精神が再び注目されるようになります。ワシントン州の小さな町アバディーンで結成された"Nirvana"というダイナミックなトリオが、1990年代初期に破壊的な雰囲気の音楽を生み出し、それまでのロックを打ち砕くのです。

彼らは「世界最大級のバンド」「無能なアイドルグループ」「ムーブメントリーダー」「世代の代弁者」など賛否両論の様々なレッテルを貼られ、多くのレーベルからも声を掛けられますが、それをものともせず、自分たちのペースで、自分たちだけの理想を追い求め続けました。「彼らは本当に奇妙な連中だったよ」ギターテックだったEarnie Baileyは振り返ります。「彼らだけでなく、時代も時代だったね。彼らのぶっ飛んだライブパフォーマンスを観ることを生きる糧にしているような、音楽中毒の人が世界に溢れていたんだ」。Nirvanaはとらえどころがなく、誰もその実体を見極めることができないまま、みんなが虜になっていったのでした。

それもまた、このギターの全てです。

Seattle, Sept. 16, 1991: Cobain playing his 1965 Jaguar at a Beehive Music & Video in-store release event for Nevermind.
Photo by Charles Peterson
Seattle, Sept. 16, 1991: Cobain playing his 1965 Jaguar at a Beehive Music & Video in-store release event for Nevermind.
Photo by Charles Peterson

Nirvanaが当時どれだけ、音楽的にも、カルチャーとしても象徴的な存在であったかを覚えておくことには価値があります。バンドがヒットした1990年代初頭、80年代に一世を風靡したヘアメタルが歩んだ道を含む、全ての道が塞がれました。しかしその直後に、Nirvanaを始めとした、幾つかのオルタナティブ、インディーのバンドが影響力を持つようになります。

Nirvana以前、オルタナティブ、インディーロックはニッチなマーケットでした。音楽評論家のStephen Thomas Erlewineは「レコード店の特別な部門に委託され、大手レーベルにとっては税金対策のようなものでした。」と語ります。1991年の秋にモンスターアルバム "Nevermind" がメジャーレーベルからリリースされた後でも「良くも、悪くも何も変わらなかった。」とも。

"Nevermind"は、「オルタナティブロックの可能性を世間に知らしめた文化的なアルバム」として MSNBC に認定されました。しかしそれは 、Kurt Cobainの10周忌に当たる2004年の出来事でした。

1991年の夏、Cobainは、LAのリサイクルショップの広告で見つけたJaguarを手にします。そのギターは彼に幾つかの点でアピールをしました。まず、左利き用であったこと。左利き用のJaguarは、全くと言っていいほど出回っていませんでしたし、それだけでも十分だったでしょう。2つ目は少しだけ短いそのネックのスケールでした。彼は同じようなショートスケールのMustangを好んで使っていたからです。3つ目にJaguarは長い間、変わったモデルだとみなされていて、比較的安価に手に入れられるモデルでした。

Cobainがこのギターを手に取った理由はまだあるかもしれません。Earnie Baileyは次の様に推測しています。

「彼はJaguarのその特徴的なボディーラインが気に入ったんだと思うよ。カルフォルニアのサーフカルチャーと一緒に歩んできたフェンダーのギターが好きだったしね。彼は本当のことは教えてくれなかったけど、サーフミュージックもしくは、80年代前半のパンクやニューウェーブのバンドと共にやってきたセカンドウェーブのサーフスタイルを評価している様に感じたよ。」

それは明らかに古びた、少し傷ついたギターでした。Cobainはそれが1960年代のヴィンテージギターだって知っていたのでしょうか?また、それだから購入したのでしょうか?言い難いことですが、奇妙な左利き用の手頃な価格のショートスケールギターは、あまりにも市場でうまくいっていなかった可能性が非常に高いです。

1965年、またはその近辺で生産されたJaguarは、普通のギターと少し違っていました。最も特徴的だったのは、その複雑なコントロール構成です。1962年に発表されたJaguarは2つのコントロールノブ(マスターボリューム、マスタートーン)、3つのスライダースイッチが下側の角部分にクロームプレートを介して設置され、2つのピックアップのオン/オフスイッチとリード用サーキットスイッチが上側の角に設置されていました。

しかし、Cobainの1965年のJaguarには3つのコントロールノブがあり、下側の角には2つのスライダースイッチ用の穴しかありませんでした。その一つは空で(テープで覆われていました。)もう一つはピックアップセレクト用のトグルスイッチが付いていました。とても珍しいのはそれがオリジナルの状態だったことです。それが特別仕様だったのか、元の所有者によってオーダーされたカスタムモデルだったのかわかりません。「興味深いことに、Tom Verlaineのモディファイがこれを継承してるんだ。」とBaileyは指摘しています。

他にもモディファイされている所があります。通常のシングルコイルピックアップに代わり、2つのハムバッカーが取り付けられています。(ブリッジ側はDiMarzio®Super Distortion、ネック側はDiMarzio®PAF)そして、ヘッドストックはストラトタイプのヘッドストックがセットされ、そこには"スパゲッティ"と呼ばれる1950年代のフェンダーに見られるロゴが付いています。さらにこのCobainのJaguarのロゴは上からラッカー塗装がされています。(オリジナルの1950年代ロゴには塗装の上に貼るステッカータイプが使用されています。)合わせて、このギターが頑丈なフライトケースに入っていた事を考えると、この四半世紀の歴史の中で誰かがツアー用のギターとして使用していたの物なのでしょう。誰なのかはわかりませんが…

「最大の謎はフライトケースがある事。$300の価値だったこのギターにだよ。多分誰かが非常に大胆なカスタムをしたこのギターの為にフライトケースを買ったんだろうね。」

しかしながら、このJaguarの歴史の裏に横たわるフライトケースの謎は、Cobainが1991年の夏以降、このギターを持ってステージに上がる事で解決されます。彼はこのギターを手に入れた後、すぐにステージで使用するようになったからです。1991年8月15日にロキシーシアターで行われたギグは、その後に控えたヨーロッパツアーの直前に行われました。振り返ってみると彼はロキシーシアターでこのギターを使用しませんでしたが、8月23日のレディングフェスティバルを含む初のヨーロパのツアーでは使用しました。

England, Aug. 30, 1992: Cobain playing the Jaguar during Nirvana’s famous headlining performance at the Reading Festival.
Photo by Charles Peterson
England, Aug. 30, 1992: Cobain playing the Jaguar during Nirvana’s famous headlining performance at the Reading Festival.
Photo by Charles Peterson

ヨーロッパから戻ってきたCobainは1991年の9月16日に"Nevermind"のリリース記念としてシアトルのBeehive Music & Videoで、この悪名高いJaguarと共に演奏をしました。シングルの"Smells like teens split"がリリースされたばかりで、9月24日にはアルバムは発売を控えており、Geffen Recordsは25万枚を目標にしていました。それはSonic Youthのデビューアルバムと同じ数です。

翌月に行われた、悪名高いダラスのTreesクラブでも、Cobainは、Jaguarと共に演奏しました。"Nevermind"がリリースしてから1か月も経っていない10月19日の出来事です。このパフォーマンスにおいても、明らかに当初の期待以上の盛り上がりを見せている、その勢いが明らかになりました。

CobainがNirvanaがヨーロッパツアーから帰ってきた1991年の11月、"Nevermind"はBillboard Top 40の35位になりました。(初登場は144位)アルバムは、すぐにチャートを駆け上がりましたが、それはGeffen Recordsのマーケティング戦略によるものではありませんでした。1993年に出版されたMichael Azerrad著の「Nirvanaの物語」に記載されているように、Geffenの社長だったEd Rosenblattはニューヨークタイムス紙に次の様に語っています。「私たちは何もしなかったーまるで、どいてくれといわれている様だった。」このアルバムは11月にゴールド、プラチナに認定されることになります。

このアルバムに起こった現象は本物でした。1992年1月11日、Michael JacksonのDangerousを抜き、ついに1位の座をもぎ取るのです。また、その日はNirvanaが初めてサタデーナイトライブに出演した日でもありました。何百万人もの人がCobainがJaguarを使って「Smells Like Teen Spirit」を演奏するのを見たあの日です。"Nevermind"はこの週だけで、30万枚のセールスを記録しました。

Nirvanaは間違いなく、この騒動の中心にあり、数ヶ月前には考えられなかった100年の歴史に残る様な偉業を成し遂げました。また、1992年の8月30日にはレディングフェスティバルの最終日のヘッドライナーを務めるなど、数多くの記憶に残るショーを行いました。彼のJaguarは、再度最前線で使用され、その演奏は「Nirvanaの最も印象的なパフォーマンスの一つ」として語り継がれています。

Cobainは、様々な場所で1965年製のJaguarを使って演奏しました。ステージからTV番組、世界の端から端まで…このJaguarは生き延びてきました。実際、このJaguarは彼が破壊しなかった数少ないギターの一つであり、数多くの記念碑的な出来事を思い起こさせます。最も印象深いダラスのショー、オランダのロッテンダムでの演奏、1993年1月16日にブラジルのサンパウロでのあのパフォーマンス…

Cobainは定期的なメンテナンス以外ほとんどしませんでした。Baileyは、Cobainがグロールシュのビール瓶の赤いゴムワッシャーをストラップロックとして使用していた事に加え、消耗したナットとチューナーを交換したかもしれないと話しています。1993年の"In Utero"のレコーディング時には、スイッチの所に貼ってあったテープをはがし、スイッチ回路を戻しました。また、Baileyは1993年から1994年の"In Utero"ツアーのためにリアのピックアップをJBに変更する大きなモディファイをしましたが、ほとんど使用されることはありませんでした。

あの"Nevermind"から20年以上経ったなんて信じられません。Nirvanaが残した20年前の激しく、そして短いそのキャリアは、彼らの音楽を通じて多くのファンの記憶の中で、今でも強力に生きています。

フェンダーのJaguarも50歳を超えています。Telecaster®やStratocaster®の様にメインストリームになることは決して意図されていませんでしたが、それにもかかわらず、Jaguarはエレクトリック・ギターの歴史の中で、独特で永続的な場所を切り開いてきました。リバーブに酔いしれた60年代のサーフギタリストから70年代のパンク、80年代のオルタナティブ、インディーロックのパイオニア、またどんなレーベルにも属したくない90年代のギタリスト達(Nirvanaはその筆頭でした)、そして現在まで…。

Kurt CobainはJaguarの魅力を本能的に感じ、そして偉大な楽曲を数多く世に送り出しました。それは彼にとって複雑なことではなく、ただ好きなことをしているだけでした。彼はJaguarを赤子のように可愛がったりもしませんでしたし、そんなことをする人でもありませんでした。ただ、彼にとって本当にうまく使いこなすことのできる、ナンバーワンのギターだったのです。

Kurt Cobain Jaguar

› Kurt Cobain Jaguar® LEFT-HAND
› すべてのJaguar®を見る